従業員が新型コロナウィルスに感染した場合、事業者は保健所への報告が必要となり、保健所が必要と判断した場合には、感染者が勤務する施設の消毒を実施することになります。また、従業員の間に濃厚接触者がいると判断された場合には、濃厚接触者は自宅待機などが要請され、事業者は一時的に事業を停止したり、事業を縮小せざるをえなくなったりします。また、事業を継続していたとしても、感染者が出たことにより、社会的評判が下がり、売上が急激に減少してしまうかもしれません。そのような場合に、事業者は、事業の停止・縮小や売上減少による損害を誰かに賠償してもらうことができるのでしょうか。
契約関係にない相手に対し損害賠償請求するには、以下の要件をすべて満たすことが必要とされています(民法709条)。
① 請求者の権利又は法律上保護される利益の存在
② 相手が①を侵害したこと
③ ②についての故意または過失
④ 損害の発生及び額
⑤ ②と④との因果関係
実際に損害賠償請求が認められるか否かは、事実関係によって大きく異なりますが、新型コロナウィルスに関連して損害賠償を行う場合に特に問題となるのは、上記③と⑤の要件です。
現在の日本国内の新型コロナウィルス対策を前提とする限り、自らが新型コロナウィルスに感染していることを認識しながら外出することは多くないように思われ、感染拡大は多くの場合、感染者が無自覚なまま行われてしまっています。このような事例を想定すると、損害賠償請求の要件である③の故意または過失を欠くことになります。
すなわち、故意とは、結果の発生を認識しながら、あえてこれをする心理状態をいいますので、感染者が無自覚な場合はこれに該当しないことになります。一方、過失とは、結果発生の予見可能性がありながら、結果の発生を回避するために必要とされる措置を講じなかったことを言いますが、自らが感染していることの認識がない場合には結果発生の予見可能性があるとはいえません。つまり、自分で感染していることの認識がない以上、結果発生(ここでは従業員の感染や事業者の損害の発生)を防止するための措置を講じなかったことの責任を問えないということです。そのため、多くの場合において、この故意または過失という要件を満たさず、損害賠償請求はできないという結論になります。
これに対して、自らが新型コロナウィルスに感染していることが明らかになっているか、感染している可能性が高い状況(例えば、検査結果は出ていないものの、自らが濃厚接触者と判定され、新型コロナウィルスの各症状を発症している場合)において、それを秘して店舗を長時間利用し、店舗で勤務する従業員に感染を拡大した場合は、③の故意または過失の要件は充足する場合もありえます。
しかしながら、感染症の拡大という点でいえば、上記⑤の因果関係を充足するケースは非常に稀だと言わざるをえないでしょう。例えば、工場の操業と付近住民の健康被害との間の因果関係においては、健康被害の原因物質の特定のみならず、「当該物質が工場の外に排出され被害者の体内に入るまでの汚染経路を明らかにすること」が一般的に必要とされています。これと同様の考え方をとると、感染症の拡大という事例においても、顧客からどのような経路で従業員に感染したかを証拠によって明らかにする必要があることになります。従業員は当該顧客から感染した可能性もあれば、無症状の他の従業員から感染したという可能性も自身の私生活上の行動を原因として感染してしまう可能性もあるわけですから、現実的に顧客から従業員までの感染経路を証明するのは困難です。なお、上記の工場の操業のような事例は、公害訴訟として、これまでの裁判例で因果関係の証明の負担を軽減する方法が取られてきましたが、新型コロナウィルスに関係する事例でそのような判断がされるかは不透明です。
以上より、新型コロナウィルスの感染を理由に、事業者がそれによって被った損害を顧客等の第三者に損害賠償請求するのは困難な場合が多いという結論になります。
そのため、事業者としては、損害賠償請求という手法による解決ではなく、持続化給付金や雇用調整助成金といった各種助成金の利用、また日本政策金融公庫や商工中金による特別貸付等による支援を前提に、事業の停止・縮小等による売上の落ち込みに対する対応を考えなければならないことになります。
以上